クラクフ 4泊5日 ④ ≪最終日・お城とユダヤ人地区≫
今日は、クラクフ最終日なのでまずは王宮(ヴァヴェル城)を見学。
お城の全体像↓
お城は、見学したいコースを自分で決めてチケットを購入するシステムです。
それぞれの場所の1日の見学者数は決まっていて、こんな風にあと何人見学できるか表示されます。
私達はダビンチの『白テンを抱く貴婦人』の間と、丁度売り切れた『王の私室』以外全て周ることに。
なんでこのダビンチの部屋だけ外したかって言うのは・・・、多分私が偏屈だから。
私達、一応、ダビンチの国から来てますし、フランスのルーブル等でも見たし、それにこの1枚の絵を見るのに8PLN=240円もとるってどうなのよ…って思っちゃったわけですよ。。
このお城の見学に私達が支払った入場料はひとり49PLN(約1,500円)。
ポーランドは観光地の入場料がどこも高すぎるっ。
お城の見学では、大聖堂が大変立派でした。
内部の写真 ↓
このお城は、時間がなければスルーしちゃっても良いんじゃないかと思います。
入場料ばっかり高くて、なんか中途半端に面白味のないヨーロッパにならどこにでもある様な普通のお城です。
アジア等から集めたお宝のあるセクションが私個人としては一番興味深かったです。
建物の中での写真撮影は禁止なので、写真は残念ながらございません。
この ↓ トルコとの戦いの戦利品のテントの刺繍が大変ゴージャスで驚かされました。トルコの将軍のテントの中は、びっしりと素晴らしい刺繍が施されているんです。
こんな細かい刺繍が・・・
天幕ぜんたいにびっしりと・・・
すごい手仕事だわぁ・・・(個人的に刺繍物が大好きなもので)。
ここも写真撮影は禁止なので、パンフレットの写真をのせました。
お城の塔に上って撮った城内↓
お城の塔から見たクラクフの街
このお城の地下には、昔ドラゴンが住んでいたと言う伝説があるそうで
らせん階段を下って地下へ・・・
この地下の洞窟にドラゴンがいたと・・・
おお~・・・中世ヨーロッパのファンタジーが味わえてなかなか楽しい。
実際は何もない洞窟ですけどね。
お城の観光も終了して、さて、私には最後の仕事が残されています。
ショッピングッ!!
買い物嫌いなこの人をどう説得してお財布を開かせるか・・・
これをクリアするのがなかなか難しい。
財布のひもの固い主人に交渉して、なんとか150PLNゲット!!!
広場で民族舞踊の催しがあっていたのでここにを残して私は大急ぎでポーランド陶器のお店を周ります。
日本やヨーロッパでも最近注目されて人気が出ているポーランドの陶器。
もっとたくさんお店があるのかと思っていたんだけど、クラクフの旧市街地で覗いた
お店は、露店が3軒とお店が3軒。
どれも手作りの温かみがあって、可愛い~♪
迷いに迷って買ったのは、こちら↓
正直な感想。
ポーランドで買うともっとお求めやすい値段なのかと思っていたんだけど、
意外と高いのね~!!! 驚いた・・・。
それぞれのセットが88PLNと44PLN。
合計約4,000円のお買い物でした。
このお店は、(クラクフで見たお店の中では)品数も多くて価格もまずまずかなぁ・・・と。
以前に載せた地図の☆1の所です。
他にも見て回ったお店の場所に☆をつけてます。
クラクフのユダヤ人街を歩きます。
ユダヤ教の教会 ↑
中に入らせてもらいました。(1人5PLNだったと思う)
ステンドグラス
ユダヤ人墓地
今でこそ平和に見えるこの場所でも、かつては激しいユダヤ人狩りが行われたのだと思うと複雑な気持ちになります。
この旅行最後の食事は、ユダヤ人街にあるレストラン。
『CHAJIM KOHAN』
住所 1, Szeroka Street (ul. Szeroka 1)
31-012 Krakow-Kazimierz
ユダヤ人墓地の近くにあるレストランが並んだ広場の一角にあります。
※以前の地図のR2の所
お店の外観にひかれて入ってみたんですけど、ここはユダヤ料理のレストランです。
お店の中には、ユダヤのシンボルであるハヌカの蝋燭が。
トランペットとピアノの生演奏を聴きながらの食事。
私がオーダーした牛肉のキノコソース。
Fabcinoさんがオーダーしたラム肉。
スープ / 前菜 / メイン2 / ジュース /ワイン で〆て127PLN。
お味は・・どうかな?ん~普通です。
ユダヤ料理・・・とは言ってもすごく変わった料理があるわけでもありません。
でも、他にはないお店の雰囲気がとても良いのでおススメ。
演奏の曲が代わり・・・
「あ、この曲は・・・ ドナドナだ・・・」。
物悲しいこの曲は、ポーランド民謡だったの?!
(ネットで調べたら中東欧ユダヤ文化の歌だそうです。市場に運ばれる子牛はユダヤ人を象徴している・・・と言う説もなくはないようです)
余計な話だと思うんだけど、なぜユダヤ人がここまで迫害されたのかって事について自分なりに理解した事を書いてみたいと思います。
まず言える事は、ユダヤ人への迫害には長い歴史があり、
ユダヤ人を迫害してきたのはドイツ人だけではないって事です。
ユダヤ人は、色んな国々で「目障りな存在」だったことは確かです。
こんな事を書いたら、気分を悪くする人もいると思いますが、第二次世界大戦が始ったあの時代、もし、ドイツでそうであった様に、日本にもユダヤ人が多数住んでいて、ユダヤ人コミュニティーを作っていたら、日本でもユダヤ人は激しく迫害されたであろうと私は思います。
稚拙な例え話ですが、想像してみてください。
約2000年前に自分の国を失ったユダヤ人は、世界中に散らばって行きました。
ナチスが台頭し始めた頃、アジアにも57万人のユダヤ人が住んでいたと言います。
(第二次世界大戦開戦の時期のドイツの人口が約6,940万人。その中でユダヤ人は54万人。)
この時期の日本にも54万人のユダヤ人が住んでいたとしましょう。
(※当時の日本の人口はドイツより少し多い)。
ユダヤ人はとても優秀で、銀行など日本経済を左右する仕事に就いたり、金貸しなどをして、比較的裕福に暮らし、社会的な実力者になる人も多い。
一方で、彼らは独自の宗教や生活習慣を固く守り、独自のコミュニティーを作り、自分たちは選ばれた民族だという『選民思想』の元に、日本人とは違う考えを持って生活している。
一部のユダヤ人は日本人に同化しますが、服装も思想も宗教も習慣も違うまま、何百年の時を経ても日本で暮らしながらも頑なに『日本人』でもあるが『ユダヤ人』でもあり続けるわけです。ユダヤ人を他と差別してきたのは、他ならぬユダヤ人自身だとも言えるかもしれません。
宗教的に見ても、ユダヤ人は私達日本人の崇拝する神を過去に残酷な死に追いやった敵でもある。
(※キリスト教徒にとってユダヤ人は、イエス・キリストを死に追いやった敵だと言う考えは根深い)
日本は先の第一次世界大戦の傷跡もまだ深く、貧困にあえいでいて、失業率も高く、物価だけは上昇して国民は皆食うや食わずの苦しい生活を強いられていました。
ユダヤ人はお金を払う事で戦争への兵役も免れた人達もいて、自分たちより良い暮らしをしている様に見える。
仕事もない、食べる物もない、貧しい暮らしの中で、家族を戦争で失い、失意のどん底にいる私達にある政治家が言うわけです。
『私達日本人は最も優れた民族だ!強い日本を作ろう!私達の国からよそ者のユダヤ人を追い出そう!』日頃から国民が感じて来たユダヤ人への不満を利用して、国民の怒りの矛先をユダヤ人に向け、この政治家は国民に熱狂的に支持されます。
そして、第二次世界大戦勃発。
ユダヤ人達は、人としての権利をはく奪され、迫害されます。
「移住先に移す」と言う理由で列車に乗せられ、収容所等に集められました。
本来なら、自国に強制送還すれば良かったのかもしれませんが、国に戻そうにもユダヤ人には戻す国がない。
この政治家も始めからユダヤ人を虐殺するつもりだった訳ではなかったようで、目障りなユダヤ人から仕事や財産を没収し、どこか遠くのマダガスカル辺りに船で移住させてしまえ!と思っていたという説もありますが、戦争が彼をモンスターに変えてしまいます。
別の場所に移住させるなんて悠長な事はやっていられない、こっちだって生きるか死ぬかの瀬戸際だ。殺してしまえ!
ユダヤ人は社会の寄生虫だ!根絶しなくてはいけないのだ!
その結果、正確な数字は分かっていない様ですが、近隣諸国から集められたユダヤ人も含めて、少なくとも600万人のユダヤ人が殺害されたと言われています。
お粗末な例え話ですが、当時のドイツを日本に置き換えるとユダヤ人の置かれた状況と、それをとりまくドイツ人の心情が少し想像し易くなるのではないかと。
ナチスドイツを圧倒的な力でけん引したヒトラーですが、この人はもともとオーストリア人なんですね。
私、ドイツ人だとばかり思っていたので、色々調べていて驚きました。
成人してからドイツ国籍を取得しています。
しかも、この人の父親は私生児として生まれていて、その父親(ヒトラーの父方の祖父にあたる人)はユダヤ人だったのではないかと言われています。
ヒトラー自身もこの事について側近に調査を依頼していますが、結果はどこまでもグレーで確証は得られていません。
近年になって、ヒトラーの血縁をDNA鑑定した結果「北アフリカ地域もしくはユダヤ人の遺伝子」に近いものが見つかっているそうです。
あれほど他民族を嫌い、アーリア人の血に執着したヒトラー自身に他民族の血(ユダヤ人かもしれない)血が流れていた可能性があるって言うのは、皮肉な話にも聞こえます。
この人にもう少しだけ画家の才能があったなら・・・あんな残酷なホロコーストは避けられたんだろうか。
ドイツは、現在でもあの頃の十字架を背負わされていますが、
あんなことをやってのけたドイツ人は残酷で冷徹な国民だったのか。
アウシュビッツをより深く知り、第二次世界大戦に興味を持てば持つほど何か違うものが見えてくるような気がします。
翌日は、クラクフ鉄道駅から20分程列車に揺られ、終点で無料のバスに乗り換えてクラクフ空港へ。
クラクフ空港へは、ヨーロッパの主要都市から格安航空会社のRYANAIRが飛んでいます。
これにて2013年夏のポーランド旅行記もやっと終わります。
今回の旅行は、私にはかなり精神的に重かった・・・。
次回の旅行は、ぜひとも気分がスコーンッと晴れるような場所に行きたいと思います。
皆様も良いご旅行を。